by Yo's

[第3回] 宮崎ディスコと東京ディスコの歴史 パート1

アボガド・マツウラ 著 

※アボガド氏が約30年前の記憶を頼り編集しましたので若干前後が食い違っているところがあるかもしれませんが...。 

 

 

[宮崎"ディスコ"の誕生]

 

 70年代後半、市内のほとんどの喫茶店にテーブル大の「ブロック崩し」のTVゲームが設置してあった時代、ほんの一部の若者がテレビドラマ「傷だらけの天使」の影響でファッションがアイビー、トラッド派からMen's・BIGIに変身してヨーロピアン派となって行く頃、若者物達が選んだ夜の遊び場がソウルと社交ダンスがゴッチャ混ぜになったディスコ?ダンスホール?だった。

 

暴走族とヨーロピアンファッション族、それに年配のネクタイサラリーマン風がこれまたゴッチャ混ぜの状態で、社交タイムにはジルバやマンボで踊り、ソウルタイムには「ソウルチャチャ」でステップ。アフロに白手袋で「ファンキー・フルーツ」「バンプ」などのダンスで踊るという、いかにも地方らしい雑貨屋?ホールだった。

 

チークタイムにネクタイ族が社交ダンスの乗りで暴走族の女の子に「踊っていただけますか?」と声を掛けそこで「俺の女に手を出すな!」暴走族の男。決まりきったレトロなやくざ映画の争い事の様な場面をよく見かけたものだった。(人気曲:ジェームス・ブラウン、ヴァン・マッコイ、テンプテーションズ、スピナーズ、オージェイズ、ボニー・Mなど)

 

ステップやダンスも地方によって独自に進化して行ったが東京のソウルディスコ直々のステップを持ち込んだ人により宮崎もミラクルズの「チャイナタウンの幽霊」、リムショツの「スーパー・ディスコ」、レイアースの「ゲット・レディー」などの独自に進化したダンスがあった。「プレイハウス」「桃山」「シャレード」のちの「カーニバル」、今の「LIVE & DJニューレトロクラブ」もその頃「ムゲン」というディスコであった。

 

都では新宿を拠点に、「ゴーゴークラブ」からソウルミュージックを中心に踊っていたディスコへと代わって行ったが、ソウルミュージック自体60年代終わりから70年代初頭に現れた「ハードロック」に天下を取られ下火を迎える、いわゆるアンダーグランドな時代が続いていた。しかしながらディスコの波は次々に押し寄せに、ハコも大型化しビジネス面でも市民権を得て各地に次々とオープンしていった。博多では「ビッグ・トゥゲザー」「スーパー・スタジオ」「インディペンデント・ハウス」「ソウル・トレイン」が次々とオープンしていった。

 

 

 

["サタデー・ナイト・フィーバー"の到来]


ディスコの出店ラッシュの最中、ディスコの歴史に永遠に残るであろうディスコ映画「サタディ・ナイト・フィーバー」が登場し、これまでのソウル色が強かったイメージが一変し、ディスコはより大衆的に変わっていった。そしてこれまでのスタイルを大きく変え、フリードリンク、フリーフードが当たり前の時代になって行ったのもこの頃である。当時「流行語」にもなるくらい、この映画にどれだけ多くの人が感銘を受け、刺激されてディスコを愛してきたことだろうか。ディスコに対する貢献度は計り知れないものだったに違いない。

 

今でも「ジョン・トラボルタ」出演の映画を見るといつ踊りだすのかと観てしまうのは俺だけかな...。ダイヤモンドビルの「カンタベリー」でよく「ナイトフィーバー、ナイトフィーバー」と踊っていたなぁ~。

 

都では大型のディスコがオープンして行ったのもこの頃で、其の中でも新宿の「ツバキハウス」や「フルハウス」は異色でソウルやファンクでなくニューウェーブ系のディスコが登場してきた。(当時はクラブと言う呼び名は無かった)後にDJ.大貫憲章氏が企画する「ロンドン・ナイト」などもあったな。ライブなんかもあったりして、芸能人や業界人、ミュージシャンなんかも多くいた。後のクラブ系DJの元祖「藤原ヒロシ」「高木完」「須永辰緒」なども出没していた。

 

 

 

PS.大型のディスコで遊んだ後は20~30坪ぐらいの小バコで穴場的スポット、「ブラック・ボックス」「サザエ」などの「アフター・ディスコ」今で言う「クラブ」の走りみたいな、いかがわしい店があり、雑誌のモデルや外国人、業界人、ゲイなど夜向性人間のたまり場として始発電車時間まで遊んでいた(店は昼ごろまで開いていた)こういう店が結構面白かった・・。

 

まだまだ続きますが次回のお楽しみに。!

 

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