by Yo's

[第5回] 宮崎ディスコと東京ディスコの歴史 パート2

アボガド・マツウラ 著

※アボガド氏が約30年前の記憶を頼り編集しましたので若干前後が食い違っているところがあるかもしれません

 

[“サーファー・ディスコ”の到来]

 

70年代も終わり80年代を迎えようとしてる頃、友達に「サーフィンしたら女にもてるぞ!」の一言で、あれだけ入れ込んだヨーロピアン・ブランド商品にあっさり別れを告げ、次の日海に行きサーファーとなった。(Tシャツと短パンとゴムぞうりだけだから洋服代が随分と浮いた)

 

丁度其の頃、新しい波がディスコにも登場してきた。東京ではディスコの拠点が新宿から六本木に代わり、サーファーファッションの若者がディスコを埋め尽くすサーファー・ディスコ時代となって行った。其のメインの発信地が「キサナドゥ」であり、スクエア・ビルの「ネペンタ」「フー・フー」「スタジオ・ワン」。その後、キサナから「ナバーナ」に代わり、「レオパード・キャット」や「キッス・レイディオ」などが有名だった。週末となると、どの店も踊るスペースが無いくらいの動員数を記録し連日大盛況の日が続いていた。

 

宮崎では筋金入りサーファー(ホンモノ)だったのに対し、都会では波乗りしないファッションだけサーファー(ニセモノ。シティー・サーファー、陸サーファーと呼んでいた)で、男女とも日焼けサロンで体を焼き、男は髪をオキシフルで脱色、髪はオカッパ、女の子はブルーのアイシャドウにサーファーカット、浜トラなるファッションが流行だったが、昼間、どこの会社に行ってもOLはこの格好だったので、今思うと「どこの国?」って思うような・・・なんか異様な感じがしたな・・・。

しかし、曲の方はディスコの歴史の中でも最高にかっこいい時代で「レアグルーブ」「ファンク」と呼ばれている音楽の大部分がこの時期に形作られ、ディスコでの認知と人気がレコードセールスに影響を及ぼすことからディスコ専用のレコード、ジャイアント・シングル(現在の12インチ)が多くリリースされて行った。(この頃はまだターンテーブルはSL1200を使っているDJはあまりいなく、ピッチも付いてなく普通のプレイヤーでミキサーも横フェーダーなしの普通のミキサーだった。まあ、よくあれでうまくつないでいたな。)AW&F、コン・ファンク・シャン、アトランティック・スター、LTD、クール&ザ・ギャング、その他多くあり過ぎ!宮崎では「カンタベリー」「スクランブル・シティー」「スタジオ505」。博多では「ラジオ・シティー」「カルチェ・ラタン」「シネシェ?シネセ?」アフターディスコ「ナインハーフ」など。

 

PS. この頃、もう一つのブームが元祖メローサウンド、「ブラック・コンテンポラリー」に代わり、いわゆる「AOR」(アダルト・オリエンタル・ロック)の黄金時代となっていきました。オシャレでキレイなお姉さんと、ホンモノサーファーは海に行く道のりで、ニセモノはサーフボードとウエットスーツを飾っている部屋でそれぞれ「アメリカ西海岸」気分を味わっていた。

 

 

[“ブレイク・ダンス”の到来]

 

82年以降、映画「フラッシュ・ダンス」で見せたステップや「ブレイク・ダンス」の影響でいたる所にブレイク・ダンス・チームが誕生していった。又、ハービー・ハンコックの“ロック・イット”の大ヒットで、ディスコDJスタイルにも大きな変化をもたらしレコードをひかっく「スクラッチ」が大流行し、それをバックに「ブレイク・ダンス」を踊り、そしてマイケル・ジャクソンで有名な「ムーン・ウォーキング」など「ヘッド・スピン」、「エレクトリック・ブギ」などの「技」が生まれて行った。それから、ラップ・サウンドの流行を見せ、RUN D.M.CやL.L.クールJなどの活躍は現在の「ヒップ・ホップ」につながって行き「ディスコ~若者の情報発信基地」としての指名を終焉させたのであった。 (この頃からピッチ付きのSL1200が定着し始める)

 

その後、ディスコは大きく分化され好きなジャンル別に楽しみ方も変化、ディスコで知り得る情報はさして重要な事ではなくなってきた。したがってディスコそのものもプールバーやカフェバーにとって代わって行き「ディスコ冬の時代」を迎えることになる。「霞町レッドシューズ」「青山トキオ」「六本木クレオ」だけは外国人や芸能人でにぎわっていた。

 

次回 [“ディスコ”の終期] ~ [“クラブ”の道] へと続く

 

[次回のメニュー]

■ダルタニアン・教授のお宝レコードを紹介します。:教授「まぁ~あたれ~けん、みせびらかしちゃるわ!」

■ライブ演奏でのステージの音量について、また演奏しやすいバランスのとり方のコツなどを紹介します。

■[宮崎ディスコと東京ディスコの歴史 パート3] いよいよ後編へと続きます。